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洞察

内なるものを求めて。

洞察とは、表面的な知ではなく物事の裏側だったり通常は見えてこない内在したものを見ることである。人が形而上である本質を求める場合でも形而下の営みは不可欠である。形而下と形而上は切り離せるものではなくただの対比だからである。

考えるとはなにか、その周辺についてもんもんとする日々をすごしているのだが、その核をつかみとる手法というのをいろいろ身につけなければならないということに思い至ったので並べておきたい。

個々の洞察

実践は洞察である。理論的なことも重要だが、実際にそれが使えなければ、わかっているとは言えない。現実に実行できるということは何かしらの本質を持ち合わせているということだ。リズムなどはまさしく体現することでのみ理解できるようなたぐいのものである。反射や反応というものは認知と出力の組み合わせであり個々には単純であってもその積み重ねは理論によって捉えがたいものとなる。

批判は洞察である。既存のものを正しく批判することこそ、理解である。弁証法というか、批判によって理解は進む。批判とは実践的でもある。批判対象として経験が出てくるからだ。精神や自然の否定、によって合理性が生まれる。欲求とは精神を否定し、肉体的に精神を捉えることでうまれる概念だ。

形式は洞察である。共通項を抜き出し、余分なものを捨て去り、抽象化形式化することで本質が得られる。形式に基づいて、シンプルな組み合わせをすると、幾何的にシンプルかつ奇抜なものが発露する。直感で捉えがたいものをみるためには抽象化が必要だ。

徹底は洞察である。ごりごりがちがち、絶対性や厳密性をもって構築することで学問は学問たりえる。封建的に取り扱うことで全体というものが捉えられる。精神と物質が相互にというように曖昧ではなく、徹底的に精神だけによってかっちり観念を考えることで、可能性というものを認識できる。

問答は洞察である。そもそも何かということを考えることである。正しく問うことが理解である。なぜなのかという問があり、そこに屁理屈であったとしても納得させるような返しをする。その理屈が通れば、それが理解になる。対話と演繹が本質を削り出していく。

修行は洞察である。思想的な感性を磨くことが理解に繋がる。0を生み出すように、根源的なものを求道することで本質に近づく。そのための道が修行である。何かに従い、厳粛で極限へ推し進める道を歩むことで感性が磨かれる。その感性が内をあらわす模様を生み出す。

普遍は洞察である、まさしく本質を見るということである。本質を見るために、今知ってることや物事におしなべてロンをすすめる。すべてのものに当てはまる共通項が本質には求められる。経験から学ぶことによって普遍は得られる。対象をよく近似できるかどうかは、さほど重要ではない。現実というのは本質を覆い隠している。よって捨て去ることも理解に繋がる。逆説的レトリックのように実はほにゃららなんだ、というような発想の転換が大事。

細部は洞察である。地味なものの機微に注目することである。神は細部にやどるというが、本質が何かということを考えるのではなく、ありのままを受け止める。そのままを受け止める事を突き詰めると、細部を眺めるということになる。大局や目的や本質ではなく細部を見ることで逆に本質をつかむ。大きな違いを排し、和を尊ぶことで細部が眺められる。流れとして受け止めることで、目的や本質を見ずとも、その細部を見ることで本質を捉えられる。

本質とは

さまざまに本質、内なるものを捉える方法があるがそれは本質が何を表すかということ自体に様々な捉え方があるからである。

模形が本質である。現実というものがあるよりミニマルなものによって支配されていると考えれば、その模型が大事になってくる。対象をよく模倣するモデルがあればそれこそが本質である。神はモデルを抽出しその上で遊ぶと考える。ひたすら分解し、絶対的なルールによって現象を記述できれば本質を理解したといえる。記号的、構成的本質であり、支配できることが本質たる素質となる。

直観が本質である。本質とは対象を直観し感じることそのものである。正しく見るそれこそが本質である。見えるものではなく見えないものそれこそが本質である。現実に現れるものはすべて本質が見える形となったものだ。よってただ見ることから極限的に直観へ磨くことで本質が得られる。本質はひとつであり、知という分かれるたものは本質から離れている。本質は無限に拡散し調和する。

感想

根源的な理解は体得することにある一方、根源が分割して行くことで現実が得られる。本質もその両方にある。思想と実現のどちらにも本質がある。調和と分割、目的とどう結びつければよいか。

本質を得る手段はいろいろありそれらは連続的に見える。どのように連続しているのかということを今後考えたい。環境からその行動からその手段へとどうつながっているのだろうか。

思想をモデルとしてどう表せば良いのかというアイデアも今後の課題。

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