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精神と物体

二元論としてではなく対比としての精神と物体。

対比は物事を認識する基礎だとおもう。単純な対比というのは、たいてい浅はかなものであって、思い込みのようなものだが、対比があってこそ認識は広がる。直接的な反射的な認知というのは精々組み合わせ程度にしか広がらないが、対比があることによってその曖昧さ故に対象の連続的な機微に目が向く。

概念というものが、太極図のように絡み合っているものだということを記憶にとどめて、精神物体の対比を見たい。

現代は、すべてを物体的に説明することで普遍性を得て、支配し、技術を構築し発展した。物体とは排他的であり、確固としたものである。

排他的であるゆえに概念というものが個別の概念の組み合わせで捉えることができた。だからこそ、単純なものから出発でき、理論が作り上げられた。

この物体の進歩があって、情報化が実現した。しかし、この情報化はまさしく精神化である。精神とは曖昧で、動的で、反応で、共有されるものである。境界はなく、どこまでも共有されるべく拡散していく。

精神が成熟していくとシェアされるものが増えていくだろう。そうすると、現時点では、個人情報という考え方があって、情報なのに排他的に扱われているが、段々と個人を識別したり個人として守ることに意味がなくなっていく。

物体が精神を支配する。

資本主義とは、保有主義である。所有権という考え方が、資本主義の根底にある。所有権とはいわば縄張り意識だ。そもそもの自然には所有も何もない。ただ多様なものが調和しているだけだ。動物が、生物が、自己という排他的なものを保持する上で、縄張り意識という物質的な精神が必要になる。この意識が、本来は共有される性質を持つ情報を、法律という人工的なもので物質的に支配しようとしてきた。

パラダイムは振動を繰り返す。

自然という精神的なものから、物質的な文明。そして、また回って、物質の利点も持った情報によって、逆に精神の共有される性質が排他的な物質にまで及んでいくかもしれない。

価値(れありてぃ、つまり物質的)の破壊が資本主義なわけだが、価値の消失は競争を失わせていく(競争が価値を産んでるというべきかもしれない)。競争が意味を成さなくなると、共有へと向かう。

共有(精神的)の次にくる物質的パラダイムがあるのか、それがいかなるものなのか、未だつかめていない。

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