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論理という石橋を叩いて叩いて叩いて…。

最近は自分が何がしたいのかわからないし、昔みたいに何かに熱中できなくなったことがすごく辛い。子供の頃は何も考えてなかったから、楽しいことに脳みそをすべて明け渡してしまえた。たとえ今となっては何でもないことでも、一日中時間を費やしていた。今、自分にあるのは浅はかなニヒリズムだ。本当に価値があるものがあるのか、なんのために生きているのか。高校の頃に渇望していた、数学だけに使える時間がいま目の前にあるのに、むしろ重荷になっている。この時間を何に費やせば良いのか。昔はただ流れていた時間が、いまは消費すべき財へと変わり果てた。

どうすればいいのかはわかっているつもり。

ただ焦りがあるから何かに没頭しているのが不安でしかたない。だから目の前のその場しのぎの行動だけを繰り返している。昔は地図なんて見たくもなかったのに、今は自分がどの方向に進めば良いのかもとめている。

悩むということが、僕の道を塞いでいるのか。

考えてもしょうがないことに頭を悩ませ、本当に頭を使いたいところは放りっぱなし。悩みが不安を引き起こし、不安を紛らわせようとインスタントな刺激で頭をいっぱいにする。

頭だけを使い、動かないから、悩みが生まれる。

淀んだ水は濁る、流れている水だけが清くいることができる。とにかく手を動かし続けないと行けない。それこそが自分にとっての考えることなんだとここまできてようやく身をもってわかりはじめた。

考えるっていうと、よく論理的だったり、ブレインストーミング的な発想を思うが、それは考えることのごくごく一部だった。論理を過信していたのかもしれない。論理は使いこなせば便利な道具だが、論理に使われれば痛い目をみる。

たとえば、論理には公理がいる。公理を作らずに出てくるものはトートロジーで、なにか言っているようで何も言ってない言葉だ。そしてその公理を生み出すのは経験や直感であって論理ではない。論理は秩序だてたり、思考を整理するにはとてもよいが、何かを生み出すことは不得手だ。

論理は真か偽かという2値的なものであるので、論理が出す答えは、答えられないか、真か偽かどちらかだ。理想的ゆえに粗い。

矛盾によわいという点もある。現実には自己言及や日々更新されていくもので溢れているが、公理が決まれば止まってしまう論理は、更新という作業を受け付けない。矛盾、即却下。それが論理を綺麗にするが、それ故に脆い。

たとえば、功利主義というのは論理には沿ってるかもしれないが、価値に大小関係をつける、時点で不合理を矛盾をはらんでいるかもしれない。自分の周りの者に価値をつけ、価値の大小で行動する。一見合理的であり、確かに論理には反しないかもしれないが、それが、欲求で行動を決定するというのが、心を蔑ろにしている。正しいかどうかというフィルターが心を覆う。

自分がどういう行動を取るかというのは、感情や、経験によってきまる。けっして論理に沿って決まるのではない。論理はいわば道具であって、納得させたり、確かめたり、後出しなものだ。論理は評価や可能性を示してくれるが、心を磨いてないと行動を掴み取れない。

論理を身に着けていなかった時を思い出せばわかる。生まれた時から論理的に考えることはない。心が今をつかみとってきた。論理は選択肢を示しこそするだろうが、肝心の決定は放置している。論理は疑いだ。疑いは決定を妨げる。疑いとして思考を生み出すが、それこそが決定を遠ざける。論理を過信しているものに問う。その論理を身につける前はじゃあ一体何だったんだ。

翻っていまの自分を省みる。

あまりにたくさんの選択肢が増えすぎたのが問題だったのかもしれない。やりたいことが多すぎて、でもすべてやることはできなくて、なににも手をつけられなかった。頭で、論理で処理しようとすると何も選べない。心という道だけがじぶんの行く先を照らしてくれる。魂を信じよ。

自分がなんのために生きてるのかわからない?

心こそが足を進ませ、歩くことでこそ心が磨かれる。

道程

どこかに通じてゐる大道を僕は歩いてゐるのぢやない
僕の前に道はない
僕の後ろに道は出來る
道は僕のふみしだいて來た足あとだ
だから
道の最端にいつでも僕は立つてゐる

何といふ曲がりくねり
迷ひまよつた道だらう
自堕落に消え滅びかけたあの道
絶望に閉ぢ込められたあの道
幼い苦悩に もみつぶされたあの道

ふり返つてみると
自分の道は戦慄に値ひする
支離滅裂な
又むざんな此の光景を見て
誰がこれを
生命(いのち)の道と信ずるだらう
それだのに
やつぱり此が生命に導く道だつた
そして僕は此處まで來てしまった
此のさんたんたる自分の道を見て
僕は 自然の廣大ないつくしみに涙を流すのだ

あのやくざに見えた道の中から
生命の意味をはつきりと見せてくれたのは自然だ
僕をひき廻しては眼をはぢき
もう此處と思ふところで
さめよ、さめよと叫んだのは自然だ
これこそ厳格な父の愛だ
子供になり切つたありがたさを 僕はしみじみと思つた
どんな時にも自然の手を離さなかつた僕は
とうとう自分をつかまへたのだ

恰度そのとき 事態は一變した
俄かに眼前にあるものは光を放射し
空も地面も 沸く様に動き出した
そのまに
自然は微笑をのこして僕の手から
永遠の地平線へ姿をかくした
そして其の気魄が 宇宙に充ちみちた

驚いてゐる僕の魂は
いきなり「歩け」という聲につらぬかれた
僕は 武者ぶるひをした
僕は 子供の使命を全身に感じた
子供の使命!
僕の肩は重くなつた
そして僕はもう たよる手が無くなつた
無意識にたよつてゐた手が無くなつた
ただ此の宇宙に充ちてゐる父を信じて
自分の全身をなげうつのだ

僕ははじめ一歩も歩けない事を経験した
かなり長い間
冷たい油の汗を流しながら
一つところに立ちつくして居た
僕は 心を集めて父の胸にふれた
すると
僕の足はひとりでに動き出した
不思議に僕は或る自憑の境を得た
僕は どう行かうとも思はない
どの道をとらうとも思はない

僕の前には廣漠とした 岩疊な一面の風景がひろがつてゐる
その間に花が咲き 水が流れてゐる
石があり絶壁がある
それがみないきいきとしてゐる
僕はただあの不思議な自憑の督促のままに歩いてゆく
しかし四方は気味の惡いほど静かだ
恐ろしい世界の果へ行つてしまふのかと思うときもある
寂しさはつんぼのやうに苦しいものだ

僕はその時又父にいのる
父はその風景の間に僅ながら勇ましく同じ方へ歩いてゆく人間を僕に見せてくれる
同属を喜ぶ人間の性に僕はふるへ立つ
聲をあげて祝福を傳へる
そしてあの永遠の地平線を前にして胸のすく程深い呼吸をするのだ

僕の眼が開けるに従つて
四方の風景は其の部分を明らかに僕に示す
生育のいい草の陰に 小さい人間のうぢやうぢや匍ひまはつて居るのもみえる
彼等も僕も
大きな人類というものの一部分だ
しかし人類は 無駄なものを棄て腐らしても惜しまない
人間は 鮭の卵だ
千萬人の中で百人も残れば
人類は永遠に絶えやしない
棄て腐らすのを見越して
自然は人類の爲人間を澤山つくるのだ
腐るものは腐れ
自然に背いたものは みな腐る
僕はいまのところ彼等にかまつてゐられない
もつと此の風景に養はれ育(はぐく)まれて
自分を自分らしく 伸ばさねばならぬ
子供は 父のいつくしみに報いたい気を 燃やしてゐるのだ

ああ
人類の道程は遠い
そして其の大道はない
自然の子供等が 全身の力で拓いて行かねばならないのだ
歩け、歩け
どんなものが出て來ても乗り越して歩け
この光り輝やく風景の中に踏み込んでゆけ

僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
ああ、父よ
僕を一人立ちにさせた父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ
常に父の気魄を僕に充たせよ
この遠い道程の爲め

※高村光太郎全集 増補版 第19巻 「道程」初出

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