知的変人になりたい…。
どうも変人を志しているむくゆうです(笑)
急に変人とか言い出すなんて十分変だとか思われるかもしれませんが、ふざけているわけではなくて、真剣に変であることに憧れています。どういうことかというと、変であることはつまりオリジナリティを持っているということにつながるからです。
ではどういうオリジナリティなのか。
人間は周りの人を見て成長していきます。生まれた時は何も知らないほとんどまっさらなので、誰でも周囲の環境から学んでいくことしかできません。しかしだんだんといろんなことを知って試行錯誤しながら成長していくにしたがって、自分で考えることを覚えていきます。幼い子供たちの発想は柔軟です。ただまだ深くまで考えるほどの体力がないからか、まだその発想は簡単なものです。オリジナリティとは呼べるほどではないということです。
じゃあもっと成長していけばいいかというと、そううまくいかないのが世の中です。人間の文化が十分に発達しているため、周りの情報を鵜呑みにする方が効率がよく、自ら考えることをやめてしまうのです。教育が考える習慣を退けているのかもしれません。これでは、考える体力がついても、独自の考えを編み出すより、既存の考えに沿う方を選びます。
自分独自の考え方を育むというのは大変厳しい道です。
周りと円滑にコミュニケーションを取るには、普通の考え方をする方が有利ですし、譬え考えることを放棄しなかったとして、ちょっとやそっと考えただけでオリジナルなものを生み出せるとは限らないからです。
即ち、変人であるということはそれだけで普通の人が越えられない壁を超えていることになるのです。これが一つ目のオリジナリティです。
もう一つのオリジナリティは存在意義です。普通の人にとって自分の存在意義というのは、快楽という感情や、特定の人にとって特別な人間であるということや、誰かの役に立てるといったことです。しかし変人であれば、すでに自分が特別であるという存在理由を持っています。
そして三つめはほかの人が見ていない景色を見ているということです。ほかの人と違う考えをもっていれば、見える景色も違うはずですよね。
まとめると、変人であれば
- 壁を超えている
- 存在意義を持っている
- 違う景色が見える
ということです。
高校の時僕は大学へ行けば変な人と出会えるだろうと思っていました。なんというか自分の今までの考えを覆すような出会いを望んでいたわけです。今振り返ってみてそんな出合いはあったのか?とおもいました。
本を読んだり音楽を聴いたりする中でそんな出会いもあったかもしれません。でも過ぎ去ってしまって今なかなかあれはとてつもなく変だった!という記憶はありません。
感受性が足りないのか、すぐその新鮮な気持ちを忘れてしまうのか、はたまた変であるという感覚は一瞬の幻で、すぐさま当たり前という感覚に移ろってしまうのかもしれませんが。

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