コミュ障、孤独、怠惰。聳える壁はいつも自分にある。
なりたくてぼっちになったわけじゃない。でも、拒絶してきたのは間違いなく自分。ぼっちでもそれなりに楽しい。でも、現状を維持したいわけではない。
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そもそもぼっちとは何か
友達や知り合いがいない、一人ぼっちの人を略してぼっちと言います。
また、他人とうまくコミュニケーションができない人をコミュ障と言います。
コミュ障とぼっちは概ね一致しますが、コミュ障=ぼっちとは言い切れません。たとえ、周りとうまくコミュニケーションで来ても心を開けなければぼっちになりえますし、コミュ障でも一生懸命周りに働きかければ友達がたくさんできることもあります。
友達がたくさんいても孤独感に苛まれることはあります。群れで生きている人間は同じ空間や気持ちを共有しあうことが、本能のレベルで求められています。だからこそ、人には言えない気持ちが大きすぎると堪え難いものになることがあり、孤独なのは自分だけだとおもうといたたまれなくなります。
ぼっちになると
ぼっちはネガティブに捉えられがちですが、まったくわるいことばかりというわけでもないかもしれません。
- 自由な時間がたくさん取れる
- 自立してすごせる一人で生きる強さ
- 周りを気にしなくていい
一方でデメリットもあります。
- 孤独を感じるさびしい
- 周りから得られる情報が少ない
- 行動範囲が狭まりがち
- コミュニケーション力が衰える
もちろんこれらがメリットになるかデメリットになるかは人それぞれですので、ぼっちになったときに自分の人生にどうゆう影響があるのか考えたうえで、ぼっちになるかならないかを選ぶべきでしょう。
孤独感とはなにか
孤独感と一口に言ってもその要因は様々です。周りと心が通じていなくて寂しい、何かを失って悲しい、社会から孤立している無力感などなど、自分が感じている孤独の要因をしっかりと自覚することで無駄に深刻に捉えずにすみます。
大切にされているか
人は周りから大切にされていないとき、孤独を感じます。自分だけぽつんと放って置かれるような状態です。人は一人では生きていけないので周りから大切にされないというのは恐怖へ直結します。
最近良く耳にする「搾取」という言葉もこの大切にされていない孤独感に根ざしている言葉です。
やりがい搾取だったり労働力の搾取であったり、とりあえずは必要としてくれているけど、自分のことを大切にしてくれているわけではないということが不安を引き起こします。その不安から、不平等感や理不尽さへの怒りを感じることもあるでしょう。
働くこと自体や、努力すること、人を愛すること、時間を費やすこと、それら自体は人間として生きていく中で当然のように行われることなのですが、相手の気持が感じられないことで満たされないひとは多いかもしれません。これも一種の孤独感です。
自分が役に立つか
人の役に立てる人は大切にされます。裏を返せば、人の役に立てなければ大切にされないかもしれません。だからこそ人は自分の能力を磨き、時には周りを蹴落としてでも上に行こうとするのかもしれません。
また、なにか得意なことがあったり、なにかをできるようになるというのは人にとって根源的な楽しみの一つです。趣味なんて言うのは改めて思えば無駄に体力や時間を消費しているものなのですが、実際にはそれこそが生きる意味を作ってくれます。
逆に自分が周りより劣っているとか、自分は何もできないと言った、無力感があると、それが孤独感に結びつきます。
心が通じているか
生きていくには他人には侵されない自分のスペースが必要です。一方、人間は群れで生きていく動物なので、周りと何かを共有したがります。同じ空間や、同じ時間、同じ思い出、同じ趣味、同じ境遇、同じ考え、、などなど。そういった気持ちが人間の分化を育ててきた気がしますね。
核家族化したり、人に干渉することが良いことと思われにくい現代では、その共有できない孤独感をネットに吐き出す人も多いようです(ぼくもかな^^;)。TwitterなどのSNS、ホームページ、などなど自分を発信すればそれに応じてくれる人もいるかもしれません。本を読めば自分と同じ考えの人とで逢えるかもしれないし、人に自分が好きなものをおすすめしたりするのも通心できない孤独感を逃れる術でしょう。
認められているか
生きているというのはそれだけで不安定なものです。それ故、誰かに認められることで支えを得たいと人は願います。自分が自分を認められればそれでいいのですが、自分を認める理由を自分の中に見出すのは難しいです。それは自分の中身は日々変化していてそれ自体が不安定だからです。
他人というのは自分にとってはブラックボックスです。だから他人に認められれば、自分を認める理由を探す連鎖をやめることができます。他人が何を考えてるかなんてわからない、でも自分を認めてくれている、ということはきっと何か理由があるはずなんだ、と思い込めるのです。
承認欲求というのも孤独感と関連しています。
孤独を癒やす
孤独な人はついつい、自分ばかりが苦しいものだと思いやるせなく感じがちです。でもクレクレ言ってるひとに与える人は意外といません。相手を大切にし、尊敬し、心を開き、受け入れ認める。まずは自分が優しくなることが孤独を癒やす近道なのでしょう。情けは人の為ならず、です。
ぼっちが陥りがちなこと
人生は再帰的です。今の状況と今起こす行動が次の状況を作ります。今ぼっちだと、次もぼっちになりがちです。ぼっちスパイラルです。
他の人のことを考えられない
ぼっちは視野が狭く、偏りがちです。普通の人より行動範囲や人との関わりが狭まりがちなので、当然ともいえます。
周りを羨ましがるだけだったり、自分だけが不幸で悲運だと思ったり、自分の悩みの解決策がすぐ身近にあってもそれに気付かない、無視してしまうことが良くあります。視野が狭いと、幸福も見つけづらいですよね。
苦しいのは自分だけじゃないと自覚し、どんどん行動することが、視野を広く持ち直す秘訣です。
ひとつの考えかたに固執する
視野が狭いと関連しますが、ぼっちは柔軟性に欠けがちです。
自分は不幸だ!という考えに囚われると、なかなか自分を変えられず泥沼に嵌り込んでいきます。
- 世界すべてが歪んでいるようにおもう
- 見下されている気がして、拒絶する
- 自分と同じような人間しか受け入れない
こういった考えに囚われると何も信じられません。意図的に違う考え方に沿って行動してみる日を作ると柔軟性を保てるかもしれません。
支え合おうとしない
何も信じるものがないと、人は易きに流れます。
たとえ一人ぼっちで苦しく惨めであっても、人に心を開く努力をするより、同じことをぐるぐると繰り返している方が何も考えずにすむので楽です。世を呪い、批判し、文句を言うことが習慣になっていると、それに満足してしまいます。
自分の殻に閉じこもっていては人と支え合うことはできません。
実は周りを見下している
思い込みが強く、人を批判しがちです。しかしそれがブーメランとなり自分の足枷になっています。
苦しみ悲しむのは他の人よりも世の中のことを知っているからこそであり、周りの楽しそうな人に比べて特別だと思い込みます。ちょっとメタ的な思考をしてみたり、ニヒリズムになってしまうのも熟慮ゆえだと思ってしまいます。
確かに世の中には汚い人もいますし、欠点のない人間なんていません。でも、自分以外の人間を批判するのがより良い行いとも言えないでしょう。
無気力
人は習慣はいつまでも続けますが(慣性の法則)、何かを始めるもしくは辞めるには動機が要り(運動の法則)、何かを行動を起こすと必ず困難があります(作用・反作用の法則)。
ぼっちというのは人に関わろうとしなかったり、何かと行動が消極的です。それ故に自分に甘い反面、やらされたことはとりあえずやります。やりたくないことばかりやっている気がして、やらされてる意識が芽生えがちです。
積極的に行動が起こせないので、段取りができなかったり、何のために生きてるかわからないので自分に厳しくする理由がないわけです。
ぼっちの原因
所謂ぼっちと呼ばれる人たちの大半は、努力してぼっちになろうとしたわけではないとおもいます。おそらく。だからこそ、ぼっちになってしまう原因をしっかり認識して、望まないぼっちからは脱出できるようにしましょう。
- 人と関わる意欲がない
- コミュニケーションに慣れていない
- 視野が狭く、先が読めない
- 自己中心的
- 勇気がない。危機回避。
- 競争に嫌悪感が在る
- 世の中に批判的
- 人間関係にうんざり
- 虚無主義
現代は情報社会と呼ばれるほど知識については豊かな時代です。知というのは色んな物を切り分けることですので、他と自というのも否応なく意識されます。周りと違って自分はどうするか求められたり、現代は自意識が強くなりがちです。それがぼっちを更に深刻なものとすることがあります。
ぼっちから抜け出すために
人生は環境によって大きく変わります。たしかに環境が人生に与える影響は大ですが、人生を変えるものが在るとしたらそれは自分の意志しかありません。まず自分から行動を起こすことが何においても一番です。
アイデンティティがない、夢の喪失、意志の崩壊、家庭崩壊、ゲシュタルト崩壊。ぼっちは何かと崩壊しているものです。崩壊しているものは一つ一つつくり上げるしかありません。根気よく、少しずつが肝です。
生きる動機を探す
動機を探すことは最も重要かもしれません。
消極的動機
- 死ぬために生きてる
- 暇つぶし
- 死にたくないから
- 考えるのは無駄
- ただ生きている
宗教的動機
- 現世は修行
- 天国に行くため
- 魂を磨く
使命的動機
- 自分との対話
- 幸せのため
- 今この時のため
- 何か事をなすため
- 生きててよかったと思える出来事と出会うため
- 誰かのために生きる
- 生きる意味を探すため
- 流れのままに生きる
いろいろありますが、やはり人それぞれで、結局自分にとって納得するものを探すしかありません。
そもそも論ですが、幸せな人には生きている意味なんて必要ありません。現状に満足していない、幸せを希求しているからこそ、その幸せとは何かを問うのです。幸せが何かということすらわからない、思考が淀んだ状態だからこそ問うのです。
特に現代は目の前にたくさんの選択肢が在るように思えます。一つ一つの生き方の意味が希薄になっています。それが直接、今の自分の生き方に降りかかってくるのです。情報過多で便利な時代だからこそ、捨て去り圧縮し、自ら濃度を高めるひつようがあります。
何も悩みがないこと、苦しまないこと、快楽を得ること、考える続けること、世界を知ること、ゲームをすること、愛しあうこと、すべてを滅すること。何が幸せかによって何をすればよいかは変わります。自分にとっての幸せとは何かをつかみとらなければなりません。
再度そもそも論ですが、生きる意味を問うことは本当はナンセンスかもしれません。理由というのは問えばキリがありません。生きたいと願うのは本能ですから、生きる意味を問うたところで納得する答えが出てくるものでもないかもしれません。だから積極的に生きようとすれば、自分で生きる意味を決めつけ、選びとるしかありません。
人にとっての幸せは生きる意味は習慣や本能よって作られます。なぜ自分が死にたくないのかを考えれば、生きたい理由が見えてきます。無価値なものを決めつければ、価値あるものも決まってきます。胸に痛む傷があればこそ、何のためにうまれ、何をしていきるのか悟り、生きることを喜べます。生きるのは面倒です、だからこそ生物はその面倒をクリアできるような機構を身に着けています。
心を開く
なぜ心というものがあるんでしょうか。そしてなぜ心を閉ざしてしまう人がいるのでしょうか。それは、心は面倒だが役に立つからです。心という一見無駄そうなものだからこそ、生物に余裕を与えることができます。そして、無駄そうだからこそ、心を面倒だと思ってしまうのです。
心はクッションです。心を閉じている人は、周りとうまくかみあわなかったりギスギスしてしまうかもしれません。
もふもふしているものがあったら、思わず抱きつきますよね?
みんなに心を開いて、ちゃんと目を合わせて笑顔でいれば、もふもふかわいくなれるのです。そうすれば、ひとりぼっちになんてなりません。
愛を求める
ぼっちにありがちなのは、愛を諦めていることです。
愛というと意味が広すぎて人によって指すものが変わってくるので一応意味を言っておくと、愛というのは、相手の幸せを望む気持ちです。自分の幸せを願ってくれる人なんていないと思っています。自分の幸せを願う人なんていないんだから、自分が幸せになるべきではないと思ってしまうのです。
愛、というと何だか重く、責任重大という風に思ってしまう人もいるかもしれませんが、相手の幸せのために奴隷になることが愛なんでしょうか?そういう愛もあるでしょうが、それは孤独感からくる欲求で、フィクションの読み過ぎです。悲しんでる人がいれば慰めてあげたい、楽しそうな人がいれば自分も嬉しい気持ちになる、というのは感じることが在ると思います。こういう、小さい愛を見つけていけば、自分も愛されているんだと気づけるでしょう。
愛を与える
愛を与えることで、初めて愛に気づけます。
自分が生きる意味を欲しているのに、他の人に夢を与えようとはしていない。愛されないと愛さないのは、愛ではなく欲求です。たとえ、自分には愛なんてないし、だれの幸せも願っていないという人でも、嘘でいいから誰かを愛してみてください。たとえ、勘違いから始まった愛でも誰かの幸せに貢献していることは変わらないのです。
もっと考えて、この世のすべてを愛してみましょう。万物の幸せを願うのです。それが自然です。あぁ。世界は美しい、、と気づくでしょう。
理由というのは便宜的なものです。理由を求めるから生きる意味を見失います。流れのままにすべてを愛しましょう。
幸福を探す
幸せは見つけなければ見つかりません。
考えよう
直感で動ければいいですが、直感で動けないのであれば、経営者意識をもち、将来を考えましょう。
色眼鏡を外し、行動の意味を考え続けることで自分の道がわかってきます。知ったかぶりではなく、知らないふりをすることは、考えを停止しないための心掛けです。
考える上で大事なことのひとつは、たくさんの情報を入れるだけでなく、自分で咀嚼することです。情報溢れる時代なのでインプットだけでも十分考えたつもりになるかもしれません。ですが、それは自分の血肉にはなりません。覚えたことをそのまま吐き出すのは知的摂食障害です。
現代は答えのない時代だと思います。それは自由だが苦しいことです。どうやって答えを作るか。どうすれば答えに依存しないかを意識するのが考えるコツかもしれません。
勇気をまとう
勇気とは覚悟です。自分はこうするんだ、と選び決めつけることです。そしてそれに従うことが意志です。
決めつけたからには疑わないこと、それが強さです。途中で費用対効果とか合理性とか浅ましいことにかかずらうと道を見失います。危機を回避しているばかりでは何も起こらず、何も学べません。またまわりからいろいろ言われることも在るとおもいますが、他の人たちは関係ありません、自分が決めることです。決めた心の声に素直に従いましょう。
なぜか迷っているなと思った時は、いま取り組んでることを書き出して見ましょう。それが横に並んでいるのなら、まだ決めることができていないことということです。そこに優先順位をつけ縦にならべることです。
知というのは際限がありません。だから考えることに終わりはありません。根源的にはなにをすればよいかなんて考えてもわからないものです。だからたとえ価値がわからなくても、決めなければならないし、実行しなければなりません。勇気が必要なのです。
行動する
言うは易く行うは難し。というように実際に行動することは重大です。最近は頭でっかちな人も多く( ハイ(^-^)/ )行動に移すこともなくわかった気になることが多いですが、行動が実であり力です。
決意ではなく、環境や行動を変えることが大事なのです(心ー考えー行動ー習慣ー環境)
行動というのは種を撒くことに似ています。すべての行動が後になって芽をだし、後の状況に関わってきます。行動しているときは自分がやろうとしていることを意識しつつ、先を読むことが必要です。そして行動するときは悩まないことも大事です。ほとんどすべての行動はまえもって予測しておくべきです。あとで、ゆっくりできるときに反芻しましょう。
最後に
このようにして、動機、心、愛、思考、勇気、行動をつくりあげれば、あとはそれが身体となり勝手にもがきます。生きる意味はその身体自身です。

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