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仕事の責任感について

仕事の責任感について

やっぱり今日はいらいらしていた。
何にイライラしていたかというと、自分の責任感のなさと、他人の責任感のなさ

自分が自分がどうでもいいと思ったことに対しては責任感がなく、
そして他人は他人にとって利益にならないことに対して責任を持とうとしないということ
自分の利益にならなければ、いわれるまで気づいてもやらないし
むしろ率先してひとに仕事を押し付けるということ。

それがすごく卑怯に感じる。
けど、実際にはそれが仕事ができるということの一部だとも思う。
人に仕事を押し付ける。また別の言い方をすれば仕事を任せる。
自分のできる範囲のことをちゃんとやる、また別の言い方をすれば嫌なことは人任せ。

実利と責任との葛藤を自分はしている気がする。
自分が納得することを優先しているという点で実利を取っているともいえるし、
自分ができるかどうかではなく、納得できるかを取るという点では責任を取ろうとしているともいえるのか。

仕事をする目的がないからそんなどうでもいいことで悩んでしまうのだろうか。
本当は同僚とも仲良く談笑したいし、定時で帰りたい。
けどそれが卑怯だと感じてしまう自分がいるのはなぜなんだ。
ひとの幸せのために仕事をしているはずなのに、人が幸せになることをねたむような後ろめたく感じるような

この感情は何なんだ。
罪の意識なのか。
おれがいったいなんの罪を犯したのか。

本当はわかってるような気がするけど、どんなに考えてもわからない。
自分で答えを出してしまうと、もう許されることがないような気がする。
だから、誰かにすべてを許してもらえるのをただ受け身になって待ち続けている。
それまでの懲役。うすうす無期懲役だと思いつつある。

許されるのを待っていることこそが卑怯ものだ。
本当だったら、正々堂々罪を告白して許しを請うべきなのに、それをしないのは、
つまびらかになったときに、今ある居場所でさえも失ってしまう気がするから。
それが許されないということだから。
責任を負い、罪を背負うという居場所を求めているのか。

とにかく、目を覚まさなければ。
目を覚ましてあげなければ。
本当の罪は、悪を犯してしまったことではなく、悪を犯し続け、また善を退け続けることだと。
ずるいなんてことはない、それはある一面からしか見ないときにあらわれる錯視だ。
作用反作用、、ずるいなんてことはない、一つ一つ自分のために最善を尽くすこと。
自分のために最善を尽くそうと思えば、ゆがんだ正義感を捨てていけるんじゃないのかな…。

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