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自己責任

逃げの言葉か攻めの言葉か、追い詰める言葉か、悟りの言葉か

世界観をものすごく反映した言葉だとおもいます。

誰のための自己責任

自己責任、僕にはなんとも無責任な言葉に聞こえますが、よく聞く言葉の一つです。一体いつからこの言葉が使われ始めたのかは知りませんが、個人主義の現代の根底にある考えなのかなという気もします。好調の時は全く至極当然の考えだと思う人も多いかもしれませんが、一度自分が自己責任を求められる窮地に立たされると、退路を断ち人を追い詰める言葉ですよね。

この言葉が何をもってして野に放たれるかといえば、一つは逃げるときに利用されるのかなと。つまり、自己責任という考えがあれば自分は関係ないよ〜と言って仕舞えばいい。社会的にも不都合なものには容易に蓋ができるわけです。社会が全てに責任を持つことなんて無理でしょうし、そういう公的な社会保障の観点からはなくてはならない考えなのかもしれません。

逆に、自分自身に言い聞かせることもあります。周りに迷惑をかけたくなかったり、自分を奮起させる時です。自分をあえて追い込むことで必ずやり遂げるようにしようというわけです。

なぜ責任を求めるのか

原因なんて一つな訳ないし、どこで、どのスケールで切り取ってみるかによって責任の場所は変化します。

夜道を歩いていて暴漢に襲われるという事件を例にとってみると、まずその襲われてしまった人だけを考えてみればこれは危険性の高い夜道を承知で歩いていた自分が悪いといえます。暴漢という存在も考えると、当然その襲った人が悪いですし、もしその地区でそう言った人が多数出てしまうのであれば、治安をちゃんと取り締まっていない行政にも責任があります。そして犯罪を犯してしまうような子育てをした親に責任があるという見方も、子育てをちゃんと支援していない国に責任があるとも、極論かもしれませんが、言えるわけです。

それでもなぜどこかに責任を求めるのかといえば、それは余裕がないからと言えるかもしれません。

問題が解決する保証なんてないのに、責任を誰かに押し付けるのは、みんなでその問題を解決する余力も、その罪や重荷を流してしまう器量も、問題を全体のものとして捉えるおおらかさもないからかもしれません。効率化や競争があって当然の世界で秩序を保つというのは難しいということなんでしょうか。

自分のために責任をもって手放そう

周りから押し付けられる自己責任というのもありますが、自分自身が持つ自己責任というのもあります。それをなんとかしないと自分の人生に直接影響が出るという場合です。たとえどんなに他の人に責任があるように見えてもそれを負わせる力がないために、自分が抱えなければならなくなるということがあります。

そういう理不尽に感じる状況で大事なことは、起源、原因というものに縛られていてはならない、ということです。

物事の種はたくさんあります。人は生物学的な存在だけじゃなく、文化的な存在でもあるからです。だから自分の起源を問題の原因を何か一つのものに限定して考えていると本質を見失いがちです。

そして、この起源というのは鎖というよりも、燃え広がっていく炎のようなもの。縛られる必要はないです。過去に足をとられていると感じるなら、未来に手を伸ばせばいいし、未来へどう手を伸ばせばいいかわからなければ過去にしっかりと立つことから始めればいいのです。

理解しなくても感謝しなくても憎まなくてもいい、ただ手放すということ。

自分を汚いと思っても意味はありません。自己責任を取るというのは、自分を責めることではないです。蓮の花は泥の中から立派に美しい花を見せてくれる。泥の中で育ったからといって、泥を糧に育ったからといって泥になるわけではない。たとえ自分が負うべきものがあったとしても、それが理由で自分が責められるいわれはありません。自分の環境や境遇を憎んだり、それが自分の全てだと感じると泥に足を取られます。

業というのは、その行為をどこに見出すかということ。無意識にやっていた行為が自分にとって重大な結果を出すことがあります。だからといって、過去の自分の行いが必ずしも予想通りの結果を出すわけではない。だからこそ業を背負わなければという意識は持つ必要がないです。

自分を変えられるのは自分だからこそ、原因や責任の所在にとらわれず上に伸びていけばいいと思います。

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