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小説と評論と

小説と評論となにがちがうの?

と悩む人はあまりいないかもしれませんね。実際本屋さんとかに言ってみても、小説と評論は別々の場所に並んでいますし、違いは明らかという気がします。

なぜ自分が今更こんなにもあきらかに異なる小説と評論の違いが気になっているかというと、ブログを書いていて、今自分はどういう類の文章を書いてるのか、書いていこうとしているのかよくわからなくなったからです。

最近ぼくがよく書いてる文章は基本的には評論の部類だとはおもうのですが、本当に評論のように書くのが効果的な書き方なのか。小説のようにもっと心に響かせるように書いたほうがいいのだろうか。

同じことを書くにしてもその書き方で全く違うものができます。現実のあらゆることは同じ一つのものが様々に形を変えているだけかもしれません。

改めて、小説と評論という異なるものを認識することでそれらにとらわれず、自分の文章を表現できるようになりたいものです。

形式の違い

小説においてもっとも根源的な要素は、時間です。小説では必ず時間の流れがあります。その時間の中で登場人物の心情や取り囲む状況が変化していきます。何らかの障壁や葛藤を主人公が抱えているというのは小説でありがちなことですが、この何らかの対立や矛盾を描くことで、その解消という形で世界を変化させ物語を自然にすすめることができます。

この時間に乗っかって、構造を組み入れたり、不変なものを浮かび上がらせるわけです。

一方、評論において根源的な要素は、構造です。対比や例示、反語、順接、逆説、並列などなど接続しが頻出するのが評論ですよね。評論はそもそも時間などによって変わらない普遍的なものを探そうとして書かれるものですから、時間の流れはなく、論理の流れだったり、接続詞だったりで普遍的な構造というものを際立たせます。

空間のように論理を広げていくことで構造を作り上げていくのが評論です。

随筆はこれらの中間に位置するようなもので、その根源的な要素は、連想です。評論のようなかっちりした構造を持たずに、矛盾を孕ませたり、また時間の流れになんて乗らず、かと言って論理に乗るわけでもなく、するするとつなげていったり。とにかく、何らかの意味でつながっていさえすれば随筆になるのではと、個人的には思っています。

その感情を剥きだしたような自由奔放さを、一つにつなげていきます。

動機

行動を起こすには動機が要ります。文章を書くにもそれなりの動機が要ります。なんの意図もなく書こうとすれば、支離滅裂な文字列が吐き出されるだけです。やはり、文章に一貫するなにかがまとまりを生みます。テーマやモチーフ、モチベーションといったなにかです。

記録、伝達、全体さ、新しさ、道具、主張、楽しさ、共感、消費。

このようなものだと思います。

自と他

自己に触れるものは自己だけである。自己と他者に境界はない。自己に触れたものはすべて自己だ。モナドとも異なり、飲み込んだり飲み込まれたりしながら自己と他者はせめぎあっている。決して触れることなく。

他人の文章というのは決定的に自分に突き刺さらない。世にはたくさんの小説があり、名作と呼ばれるものだけでも夥しい。しかしそのどれもが、自分に向けられているわけではない。すべてが一般論のいきを出ない。どんなに人間の奥底の心理をとらえたものであったとしても、それは人間についてであってあなたについてではない。決定的に自己が欠如している。そんな小説が胸の奥に突き刺さるはずがない。あなたは目の前で人が刺されてるのをみて、その傷がそっくりそのままあなたの身体に反映されることがあるだろうか。そこまで共感できる人なんてのは生きていけない。他人は所詮他人、だから人間は個を保って生きていけるのだ。

文章というのは決して武器ではない。毒や薬にはなっても、殴ることはできない。

アンパンマンの頭です。

自分を構成する一部を言語として他人に分け与える。そして読者はそれを飲み込む。飲み込んで初めて文章は相手に届く。

一方で、文章が読者を飲み込むことも在る。読者は文章の思惑で考えさせられ、文章に操られるように熱中し没頭する。異世界で転生で、とそのゲートさえくぐってしまえばあっという間に文章に飲み込まれ、自分を捨てされる。

読み手も書き手も、文章を飲み込んだり飲み込まれたり、点いたり消えたり。

明と暗

評論はその表す意味が重要で、暗にしめすことは評論としてはよろしくない。いっぽう小説は一つ一つのことばと全体、過去との往復によって深みを得るよって、明らさまにしすぎるのも興をそぐ。

小説を解説しようとすれば、その解説文はいつまで立っても終わらないだろう。一方で解説を小説でもれなく表現しようとすると必ず冗長だったり、意図しない意味をもつだろう。常に穴があって、それを互いに埋めようとして雪崩れ込み溢れては広がっていく。

なぜ出来ないのかといえば、意味と表現が切り離せないからだ。表現は意味を限定できないし、意味は表現がなければ存在しない。意味を表すには表現が必要で、その表現によってまた新しい意味が付与されてしまう。

文章を書くことで何かが指定され、指定されてない部分が補われる。そうして広がっていく。

緊張と緩和

動と静。不安と安心。生と死。創造と破壊。上と下。合せと離れ。

揺りかごのように揺らすと心地良い。どちらかに偏よると行き詰まり苦しくなってしまう。ジェットコースターより速い新幹線に怖がらないのは安定してるから。

ホラー。謎解き。サスペンス。シュール。

色んな物を揺らすことで心も頭も揺れる。止まってるものを見つけては揺らす、動いてるものに飛びついて抑える。何でもそういうことなんだ。

文法とリズム

一定の間隔というものがあってそれを意図的にずらしたり崩したりすることでリズムが生まれる。知というのは決まりきったものでそれだけでは面白くないから、それをずらす。逆にズレ過ぎてると雑音になるので、繰り返す。

知識や文法というものは画一化、効率化するための方法だ。外から上から言葉を押さえつける。過度にとりたてると自由さを失う。一方で全くの自由というのも苦しい。

それで物書きにはリズム感が大切なのだ。

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