精神と物体という二分
デカルトの二元論では精神と物体によって世界を二分し、支配しやすい対象である物体を知り、制御し用途する。
しかし現実には精神と物体の境界は曖昧である。日常を思い起こせばわかるように、特に我々人間にとってはものよりも情報、人間関係と言ったものが生活の大部分を占める。かと言ってそれを物体から切り離すことはできない。どこで区切ることもできない。
じゃあ精神や物体とは何かというととが気になるわけだが、精神と物体を分けることはできないので、その主因子に目を向けることになる。共有制と排他性、それぞれの扱い方の違いと入った要素による対比で捉える。
そういった対比関係の中で現実の様々な対象を掴むことで、何を動かし、何を固定すべきかというのを捉えることができる。
波動と粒子の対比
精神と物体は波動と粒子とに置き換えられる。伝導されるものと伝導するもの。動かすものと動かされるもの。そういった枠組みから眺めることで、波動的なものと粒子的なものとを見分け、臨機応変に対応できる。
波動 | 粒子 | |
---|---|---|
存在 | 共有 | 排他 |
境界 | 曖昧 | 明確 |
相互作用 | 拡散 | 衝突 |
繋がり | 連想 | 因果 |
縛り | 自由 | 支配 |
重さ | 軽い | 重い |
関係 | 調和-不和 | 支配-従属 |
捉え方 | 関係性→統合→体系化 | 分析、論理→削る→本質、法則 |
視点 | 主観 | 客観 |
精神的なものに対しては、その背後にある現実や意図を捉えようと想像し、うまく統合することで、当事者意識で、根拠を開放すること。
物質的なものに対しては、定義に依って形を定め、本質を削り取ることで、客観的に問題に解答を与えること。
人を動かすには、言葉もしくはソリューションを押し付けることで変える2つの方法があるということである。そこで必要なのは違和感を感じる力と、支配しているものを見抜く力である。
自分を作る
目標というのは、自分の外の対象を比較対照して良いものを選んで、そこを目指すことだ。憧れや尊敬が意志となり、目標を自分に取り込みそれを行動に移すことが熱意になる。生へ繋がる羨望が行動の根拠になる。
自分を作ることは、自分にとっての誇りやどう生きたいかを確認し、それを姿勢に出すことだ。探求や追求が意志となり、本当に思っていることをそのまま言葉にし、意志をそのまま行動に移すことが熱意になる。死に直結した危機感が行動の根拠になる。
精神と物体を今に近づけることが、双方の力をうまく伝達する方法である。
今、ここ、私というのは、まったく存在の境界がいくらでも小さくなるという点において無である。無という特異点であるからこそ、矛盾を許容し、精神と物体との変位を可能にする。
精神と物体を渾沌とさせるのではなく、分業し、無を中心としてサイクリックにPDCAのような形で動かすことが大事だ。
自分を作ることの意味
自分を作らないということは定住しないということだ。右往左往し、ふらふらと観光客のような人生だ。
未知と巡りあうためには、定住と冒険との両方がいる。定住しなければ、様々な地を眺めれるが、表面的にしか理解できず、それだけでは革新的なものは生まれない。

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